帰宅すると、小鳥〈ことり〉が夕食の準備を終えて待っていた。
「おかえりなさーい」
それは一人暮らしを続けてきた悠人〈ゆうと〉にとって、少し照れくさく感じる言葉だった。
電気のついた家に戻るのも、そしてドアを開けた時に鼻をついた味噌汁の匂いも、全てが新鮮で心温まるものだった。「ただいま。小鳥も今日はお疲れだったな」
手を洗いながら悠人が話しかける。そして台所に入ると、テーブルに並んだ夕飯と、エプロン姿の小鳥が目に入った。
(小百合〈さゆり〉……)
小鳥と小百合の姿が重なって見えた。その瞬間、小鳥が抱きついてきた。
「おかえりなさい、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」
その時そこに、もう一人の声が響いた。
「いきなりなんと、うらやまけしからんことを!」
その声に振り返ると、そこには同じくエプロンをした弥生〈やよい〉が立っていた。
「……私めもっ!」
そう言うと、弥生も悠人に抱きついてきた。二人分の重みに、悠人がその場に崩れる。
「どわっ!」
「おかえりなさいませ、悠人さん」
赤面しながら、そう言って弥生が悠人にしがみつく。
「今日も一日お疲れ様でした。それで……どうなさいます? 弥生にします? 弥生にします? それとも……や・よ・い?」
* * *三人がテーブルを囲む。
ニコニコしている小鳥とは対照的に、弥生は顔を真っ赤にしていた。悠人も弥生に抱きつかれ、気が動転していた。「いっただっきまーす」
その場の空気そっちのけで、小鳥が夕飯を食べだした。
「労働の後のご飯はおいしいね、悠兄ちゃん」
「あ、ああ……」
動揺を隠しながら、悠人も食事を始める。小鳥はバイトの話を嬉しそうに話してくる。
「それで、なんだけど」
食事も終わり、お茶を入れたところで小鳥が言った。
ある水曜の夜。 この日は弥生〈やよい〉から、サークルの打ち上げで帰ってこないと小鳥〈ことり〉にメールがきていた。「でも小鳥さん、抜け駆けは許しませぬぞ……」 小鳥も今日は、遅番で22時までの勤務だった。悠人〈ゆうと〉は久しぶりに、家で一人の時間を過ごしていた。 小鳥の用意していたカレーを食べ、入浴を済ませジャージ姿になった悠人は、居間でコーラを飲みながらアニメを見ていた。 まだ小鳥が来てから一週間にもならないのに、部屋がやけに広く感じる。 仕事の後、一人でこうしてアニメを見る生活を続けていたのに、今はそのことに違和感すら感じられた。それが不思議だった。 小さくあくびをして煙草に火をつけた時、メールの着信音がなった。「我、到着せしめたり カーネル」「カーネル……来たか……」 そうつぶやき、悠人が白い息を吐いた。 * * * ネットで知り合った友人、カーネル。 出会いはゲームのレビューだった。 ある恋愛シミュレーションゲームのレビューを読んでいる時に、過激な発言をしている男がいた。それがカーネルだった。 その切り口や毒舌に興味を持った悠人は「カーネル」を検索、彼のブログにたどりついた。 ブログ名は「カーネルの囁き」。 トップページが戦争映画「地獄の黙示録」仕様になっていた。 そこには自称19歳、カーネルと名乗る男が、あらゆるアニメやゲームに関するレビューを書き連ねていた。その内容は過激なものだったが、悠人は不思議と好感を持ち、そこの読者になっていった。そして時に、カーネルにコメントするようになった。 悠人のハンドルネームは「遊兎〈ゆうと〉」。 互いにやりとりをする内に気が合い、個人的に連絡を取り合う仲になっていった。そして最近になって、直接会ってみようといった話が出ていたのだった。 ブログの自己紹介欄によると、カーネルは関東在住のようだった。 煙草を消し、紅茶の用意を始める。
沙耶〈さや〉は上機嫌だった。 沙耶は悠人〈ゆうと〉を兄のように想い、慕ってきた。 そして実際に会い、話していくうちに。思い描いていた通りだった悠人に喜びをかみしめていた。 何より悠人は自分を認めてくれる。ネットでもそうだった。意見が違い激論を交わすこともあったが、最終的にはそれがまた新たな信頼を生む結果になっていった。 今もまた、悠人は北條沙耶を認めてくれた。受け入れてくれた。それが何より嬉しかった。 * * * 沙耶の生まれた北條家は、旧華族の流れを引く名家だった。外務次官の父と、父が大使時代に出会ったイギリス人女性を母に持つ。 子供の頃から優秀で、中学卒業と同時に特例で大学に通うことになった。頭脳明晰な上に美貌の持ち主である一人娘に、両親は期待した。沙耶自身、自分が頑張ることで両親が喜ぶ、そのことが嬉しかった。 しかし交友関係はよくなかった。 子供の頃からずば抜けて頭のよかった彼女を、同世代の子供たちは畏敬の念で見ていた。女子からは嫉妬の対象として、男子からは近寄りがたい存在として見られてきた。大学に入り、自分のこれまでを振り返った時、同世代の友人が一人もいなかったことに気付いた。 それはいつしか、勉学だけに勤しんできた彼女にとって、最大の弱点となった。コミュニケーション能力の欠如だった。 言いたいことを素直に伝えることも出来ず、周囲の視線を恐れる余り、自分をいくつもの仮面で覆い隠していくようになっていった。 他人の自分を見る目に対する恐怖。もし自分が優秀でなかったら、もし自分が北條の人間でなかったら。自分には何が残るのだろうか。 彼女のストレスは歳を重ねるにつれ大きくなっていき、16歳になる頃には外出も出来なくなっていた。 一人部屋の中に閉じこもるようになった彼女にとって、ネットだけが唯一の、世界との接点になっていった。 初めは見るだけだった。書き込むことなど出来なかった。情報の海を漂っていく中、彼女は生まれて初めて、自分から学んでいきたいと思えるものに出会った。 それが「
「で」 沙耶〈さや〉が口を開いた。「メールにも書いた通り、しばらくここで世話になる。問題ないな」「そのことなんだが……沙耶、実は話しておかないといけないことがあるんだ」「なんだ、問題があるのか」「まず俺は、お前が男だから泊めると言ったんだ。だけど会ってみれば女で、しかもその……幼女ではないが、その……」 沙耶が顔を真っ赤にし、両手で胸を隠した。「き、貴様今、胸を、胸を見たな! 胸で幼女という単語を連想したな! な、なんと無礼な」「いやすまん、幼女の例えは忘れてくれ」「かあああっ!」 蹴りが悠人〈ゆうと〉の脇腹に入る。「ったく……どいつもこいつも、女の価値を乳で判断しおって……私の乳はまだ発育途上なのだ。見てるがいい、いずれ目をみはるほどの重量感で悩殺してやろうぞ。あっはっはっはっ」 沙耶が残念無念な胸を突き出し、声高らかに笑う。「それでな、沙耶」「なんだ。乳以外で問題があるのか」「いやそうじゃなくて……おまえな、年頃の女子がこんなおっさんの家に泊まり込んで、その……危機感とかないのか?」「危機感とはなんだ」「いやだから。俺も一応男なんだが」「お前は私に何かするつもりなのか?」「そんなことはないが」「なら問題なかろう。まぁ無理もない、39歳魔法使いの家に、いきなりこんな女神が降臨したのだ。私の魅力の虜になったか」「いやいやいやいや」「そこは否定ではなく肯定だ、遊兎」「肯定して欲しいのかよ、ってどうでもいいわ! それで沙耶、泊まるにしてもいつまでなんだ」「そうだな。少なくとも、家が見つかるまでの間は世話になるぞ」「家ってどういうことだ」
「ただいまー!」「お、おかえり小鳥〈ことり〉」 遅かったか……悠人〈ゆうと〉が額に指を当てた。「なんだ? 遊兎〈ゆうと〉、女の声がしたが」 小鳥は洗面台で手洗いをしている。「だな。説明しようと思ってたが帰ってきたみたいだ。しょうがない、直接説明するよ」「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、誰か来てるの?」 ――小鳥と沙耶〈さや〉。 視線が合った瞬間動きを止め、互いを凝視しあう。 小鳥の瞳は好奇心そのものだったが、沙耶の視線には明らかに敵意が込められていた。「悠兄ちゃん、この人は?」「遊兎、この女は何者だ」 二人の質問に悠人が困惑する。「まぁあれだ……とにかく小鳥、座ってくれ。説明するよ」「うん!」 悠人は立ち上がり、小鳥と沙耶にミルクティーを作った。 * * *「ネットで知り合った友達がいるって話、したよな」「カーネルさんだよね。もうすぐここに来るって。あ、カーネルさんのお知り合い?」「こいつがカーネルなんだ」「え?」「いや、だからな、俺もさっき知ったばかりなんだが……実はカーネルは女で、今目の前にいるこの子、北條沙耶〈ほうじょう・さや〉さんがカーネルだったんだ」「カーネルさんが……女の子……」「そうなんだ。それとな、実は沙耶、遊びにじゃなくて、ここで住む為に来たらしいんだ。それでな、家が決まるまでの間、しばらくここで世話することになって……」 小鳥は呆気にとられた表情をしていた。 悠人は変な汗をかいていた。何で俺がこんなにパニくってるんだ? そう思いながら。「そうなんだ」 その声に悠人が見ると、小鳥はいつもの表情に戻っていた。
氷をくるんだタオルを用意し、二人に渡す。二人とも、初めにくらったビンタで頬が腫れていた。「ったく……可愛い顔を腫らしてどうする」 そう言いながら、二人の体を確認する。小鳥〈ことり〉は親指を立て、「私は大丈夫。ダメージはほっぺだけだから」 そう言った。 沙耶〈さや〉の膝が少し擦り剥けていたので、そこに消毒液をつける。「痛っ……」 消毒液に、沙耶がか細い声をあげる。「当たり前だバカ。いい歳して取っ組み合いの喧嘩なんかしやがって。しかも男の目の前で……ほらっ」 絆創膏を貼り終え、絞ったタオルで沙耶の顔を拭いた。「涙でぐしゃぐしゃじゃないか、お前の顔」「ふにゅう……」 沙耶が罰悪そうにうつむく。 悠人〈ゆうと〉は再び紅茶をいれ、二人に手渡した。「とにかく飲め。飲んだら落ち着くから」「ありがと、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん」 小鳥も椅子に座って紅茶を飲む。沙耶もしばらくうつむいていたが、悠人の手が再び頭に乗ると、小さくうなずき口をつけた。「甘い……だが美味い……」「アドレナリンが出まくっただろうからな。砂糖増量だ」「この甘み、絶妙だね悠兄ちゃん」「まあな。どうだ沙耶、少しは落ち着いたか」「……」 カップを置いた沙耶が、小さくうなずく。「……大丈夫だ、問題ない」「それならよかった。それでどうだ? 拳で何か生まれたのか?」「う、うむ……」 沙耶が照れくさそうに微笑んだ。「……気にいったぞ、水瀬小鳥〈みなせ・ことり〉。拳で語ろうと言ってくれたこと、全力で相手
学生時代から、悠人〈ゆうと〉は団体行動が嫌いだった。 特に数日間「旅行」という名目で他人と行動することは、これ以上にない苦痛だった。 * * * 高校2年の冬。修学旅行当日。 彼は布団にもぐったまま、出ようとしなかった。「悪魔さえ来なければ、行かずに済むのだが……」 だが、その願いは無残に打ち砕かれた。 部屋の扉が勢いよく開かれ、悪魔はやってきた。「悠人、おっはよー!」 早朝5時半にも関わらず元気全開の声。小百合〈さゆり〉だった。 声と同時に悠人の布団がはがされる。「ぬおっ!」「遅刻遅刻! 悠人、修学旅行遅刻しちゃうよ!」「ああ遅刻だな。だから俺のことは放っておいて、お前だけでも行ってくれ。青春の1ページを無駄にするんじゃないぞ」「訳の分からんことを言ってる場合じゃない!」 そう言って小百合が、悠人が離さずくるまっている毛布を引き剥がそうとする。「ええい、放っておいてくれと言ってるだろうが! 俺は400℃の熱で動けんのだ!」「なら雪で冷やさないとねー」「くっ……」 この頃の悠人は小百合が苦手だった。 自分のことを、ある意味両親よりよく知っている存在。誰よりも一番共に過ごした他人。それは彼にとって、弱点を全て知られているということでもあった。 そのことに嫌な感情を持っていた訳ではないが、こういう時は別だった。今日起こしにきたのも、悠人がさぼるのを見越しての行動だった。「はいはい、悠人が行きたくないのは分かってます。でもね、はいそうですかと保護者が言う訳ないでしょ。高校最後の一大イベントなんだから、早く起きて用意しないと」「だーかーらー」 悠人が無駄な抵抗を続ける。「期間限定、場所限定のスポーツなんぞに俺は興味がない」「いいじゃないスキー。こんなことでもなかったら
夜。 皆が寝静まった頃、悠人〈ゆうと〉は旅館からの脱出を試みた。教師の警護も思ったほど厳重ではなく、難なく出ることができた。 一人雪の夜道を歩く。その時背後から、何者かが悠人の肩を叩いた。「ひっ……」 振り返ると、ダウンジャケットを着込んだ小百合〈さゆり〉が立っていた。「悠人、何してるの」 小声で話す小百合。一番見つかってはならないやつに見つかってしまった……そう思い、悠人が天を仰いだ。「ねぇ悠人、どこに行くの?」 しかし悠人の絶望とは裏腹に、小百合の目には興味と期待が映し出されていた。「ねえねえ悠人、何か面白いことでもあるの?」「いや、その……特に面白いことじゃない。あれだよ」 そう言って悠人が空を指差した。「え?」 小百合が空を見上げる。「あ……」 そこには満天の星空が広がっていた。「せっかくこんな雪山まで来たんだ。これぐらいの贅沢、あってもいいだろ」「いいかも!」「え?」「懐かしいな。なんか昔、悠人とプラネタリウムに行ったのを思い出したよ。 でも4日もここにいるけど、全然気付かなかったよ」「ま、晴れたのは今日が初めてだしな。しかし以外だな。いいのか? クラス委員が規則破って」 悠人が意地悪そうに笑う。「これくらいいいの。だってこの4日間、ほとんど悠人と話せなかったし。それに役員やら何やらで結構働いたし、ご褒美があってもいいでしょ?」 小百合がにっこりと笑った。 * * * 途中で買った缶コーヒーを手に、二人は旅館から少し離れた場所に腰掛けた。「ほんと、きれいだね」「静寂と、星空に吸い込まれそうな感覚&
「……なんか最近、小百合〈さゆり〉の夢をよく見るな……」 目覚めた悠人〈ゆうと〉がそうつぶやく。 そして起き上がろうとして、腕にまだ小百合の感触が残っているのに気付いた。 何やらいい匂いもする。「なんだ……俺、まだ寝ぼけてるのか……」 視線を腕に移す。 そこには腕にしがみついている、ネグリジェ姿の沙耶〈さや〉の姿があった。「え……」「ん……むにむに……」「……うぎゃああああああああっ!」 悠人の絶叫に、小鳥〈ことり〉が飛び込んできた。「どうしたの悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「こ、これ……」「あーっ!」「ん……もう朝……か……遊兎〈ゆうと〉、小鳥……おはようございます」「おはようじゃない。お前、なんでここで寝てるんだ」「何を言う。お前は私の下僕なのだ、夜伽〈よとぎ〉は当然だろう」「な、な、何が夜伽〈よとぎ〉だお前!」「朝から大声を上げるでない。全く……これだから庶民は困る。もっとこう、優雅に朝を迎えようとは思わないのか」「平穏な目覚めを破壊したのはお前だ」「まあ聞け。私は昨晩、生まれて初めての土地に足を踏み入れたのだ。見知らぬ土地で初めての夜。心細くなって当然であろう。大体、一人で寝かせるお前が悪いのだ」「なんだその理屈は。心細いも何も、壁一枚隔てた隣の部屋なんだ。問題ないだろ」「ビルがいない」「……ビル?」「うむ。クマのぬいぐるみ、ビルだ。やつはまだ実家にい
朝。 何かがまとわりついている感覚に、悠人〈ゆうと〉が目覚めた。「げっ……」 ネグリジェ姿の沙耶〈さや〉が布団に潜り込み、悠人にしがみついていた。「また……お前か……」 沙耶を起こそうと体を向けると、胸元に視線がいった。ネグリジェがはだけ、沙耶の微乳があらわになっていた。「お、おい、起きろ沙耶」 赤面した悠人が、慌てて沙耶の肩をゆする。「う……うーん……」「ひっ……さ、沙耶……」 甘い匂いに動揺する。 沙耶の小さな唇が、悠人の耳元をかすめた。「ゆう……と……」 耳元に沙耶の声。顔には沙耶の金髪が、足には細い足が絡みつく。 ガンガンガンガンッ! 突然頭の上に、金属音が鳴り響いた。慌てて見上げると、小鳥〈ことり〉がフライパンとお玉を持って立っていた。「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、おはよう」 意地悪そうに、ニンマリと笑う。「いや、これはその……違うんだ小鳥」「最高のお目覚めだね、悠兄ちゃん」「……この状況でそれを言うか? 知ってたんなら助けてくれよ」「だってサーヤ、今日引越しだからね。最後の夜だし、悠兄ちゃんを貸してあげようと思って」「貸してってお前……それは自分の持ち物って前提じゃないか」「ほらサーヤ。そろそろ起きないと、引越し屋さん来ちゃうよ」「ん……」「おはようサーヤ。よく眠れた?」「おはようございます、小鳥&hellip
「これはまた……面妖な味だな」 菜々美〈ななみ〉の淹れたコーヒーを口にして、沙耶〈さや〉がつぶやく。「北條さん、コーヒー駄目だった?」「いえいえ、違うんですよ白河さん。このサハラ砂漠、インスタントコーヒーなるものを飲んだことがないんですよ。なにしろお嬢様らしいですから。胸は平民以下ですけどね、おほほほほほっ」「そう言うお前は、こういう平民飲料水で無駄な色香を育てた訳だな」「二人ともほんと、何がきっかけでも会話が弾むよね」 小鳥〈ことり〉が笑う。菜々美もつられて笑った。「みなさんほんと、楽しいですね」「あははっ……でも白河さん、想像してた通りの人ですね」「私ですか?」「はい。悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、よく白河さんの話をするんです。その時の悠兄ちゃん、いつも楽しそうで。だから白河さんに会えるの、すごく楽しみだったんです。やっと今日会えて、悠兄ちゃんがあんな顔をする理由、分かった気がしました」「どんな風に分かったのか、聞いてもいいですか?」「白河さん、きっとすっごく優しくて、気遣いの出来る人なんだと思います。そして多分、どんなことにも一生懸命なんだろうなって」「……すごく壮大な分析ね」「私も白河さんのお話は伺ってましたが、確かにその時の悠人〈ゆうと〉さん、優しい顔をしてました。私結構、嫉妬全開でしたよ」 弥生〈やよい〉が入ってくる。「しかも白河さん……なかなかどうして、結構なものをお持ちなようで」 弥生の視線に、菜々美が慌てて胸を隠した。「な、なんですか川嶋さん、その目怖いですよ」「いえいえ、男所帯の町工場に咲く一輪の花。それを想像するに私、次の作品のいい刺激になると言うかなんと言うか……とりあえず白河さん、その胸をば少々触らせてもらっても」 ガンッという音と共に、弥生が頭を抑える。沙耶のトレイ攻撃だった。「ぷっ……」 菜々美が再び吹き出した。「あははははははっ」
(あれから気まずくなるかなって思ってたけど、悠人〈ゆうと〉さん、思ったより自然に接してくれて……嬉しいような寂しいような…… あれ以来告白してないけど、それでも、悠人さんの一番近くにいるのは私だって思ってた。だから変な安心感があったんだけど……最近、悠人さんから女の子の話をよく聞くようになって……私、このままでいいのかな……) コーヒーを飲み干し、悠人が立ち上がる。「よし。じゃあもうひと踏ん張りするね」「じゃあ悠人さん、頑張ってくださいね」「菜々美〈ななみ〉ちゃんもありがとね。うまくいけば、あと2時間ぐらいで片がつくと思う。菜々美ちゃん、いつでも帰っていいからね」「私、今日は最後までいます。いさせてください」「いてくれるのは嬉しいんだけど。菜々美ちゃんは大丈夫なの?」「勿論です。悠人さん一人に大変な思いはさせられません。何もお手伝い出来ないけど、せめて完成するのを見届けさせてください」「分かった。ありがとう、菜々美ちゃん」「それに……こうして一緒に、二人きりでいられるのも久しぶりですから……」 そう言うと菜々美はカップを持ち、足早に事務所に戻っていった。 * * * 菜々美は悠人の椅子に座り、膝を抱えて考え込んでいた。(思わずあんなこと言っちゃった……今までずっと自然に振る舞ってたのに、なんであんなこと言っちゃったんだろう……焦ってるのかな、私……) 菜々美は悠人の変化に動揺していた。最近の悠人はこれまでよりも優しく、強く、誠実さを増しているように感じる。それはまるで、人生において目標を見つけたかのような変化だった。 明らかに悠人は変わった。そしてその原因が、最近悠人が口にする「小鳥〈ことり〉」によるものなのか……そのことを考えると、言いようのない不安に襲われた。(幼馴染の子供、小鳥ちゃんか……) 時計を見ると21時をまわっていた。「そうだ、うっかりしてた!」
飲み会が終わり。 菜々美〈ななみ〉は小雨の繁華街を、一人歩いていた。(悠人〈ゆうと〉さん、私のことをどう思ってるんだろう……やっぱり妹なのかな……) そんなことを考えながら信号が変わるのを待っていると、サラリーマン風の二人が近寄ってきた。「君、今一人?」「よかったら一緒にどう?」 明らかに酔っている二人が、菜々美の肩を抱いてきた。「あ、あの……やめてください」「いいじゃないの。どうせこうして声かけられるの、待ってたんでしょ」「楽しいからさ、一緒に飲みにいこうよ」 肩を抱く手に力を込める。 男に免疫のない菜々美の足が、がくがくと震えてきた。助けを求めたいが声も出ない。「あれ? ひょっとして震えてる? 大丈夫だよ、俺ら優しいから」 涙があふれてきた。「はいはいウブな真似はもういいから。行こ行こ」「……菜々美ちゃん?」 聞き覚えのある声がした。菜々美が顔を上げると、そこに悠人が立っていた。「ゆ……」 悠人の顔を見た瞬間、緊張感が一気に解け、その場にへなへなと座り込んでしまった。「うっ……」 口に手を当てると同時に、涙が頬を伝った。「ほんとに泣いちゃったよ」「てか、お前誰だよ」「何してるんだ……」「何だお前、喧嘩売るってか」「何してるんだっ!」 悠人が傘を投げ捨て、今にも飛び掛りそうな勢いで二人を睨みつける。 その勢いに、二人が一瞬後退る。しかしすぐに態勢を戻し、悠人に突っかかっていこうとした。「ふざけるなお前ら! 消えろ!」 悠人の大声に、通行人たちが足を止めて見物しだす。周りに人が集まってきたことに気付いた二人は、「けっ……格好つけてるんじゃねぇぞ!」 そう捨て台詞を残し、その場から去っていった。「……」 通行人たちも立
その日は朝から、冷たい雨が降っていた。 * * *「今日は早めに帰れるから。明日は沙耶〈さや〉の引越しで忙しいだろうし、今日は三人でゆっくりしよう」「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、何時頃に帰れそうなの?」「明日出荷するやつも昼には片付きそうだし、トラブルがなければ18時にあがれるよ」「そうなんだ。私も18時あがりだから、ゆっくり出来るね」「沙耶は今日、どうするんだ?」「今日はネット三昧だ。ブログの更新も止まってるからな。生存報告をしておくつもりだ。 それはそうと遊兎〈ゆうと〉、お前は何の仕事をしているのだ?」「金型工だ。部品を作る為の型を作ってるって言えば分かるかな。たい焼きを作る金属の型みたいなやつ」「ほほう。遊兎の仕事はたい焼きの製造か」「耳に残った言葉だけで理解するな。これでもうちの会社は、世界で認められてるんだからな。明日納品するやつも、アメリカの航空会社の部品なんだぞ」「へぇー。難しいことは分からないけど、すごいんだね」「あそこが満足出来る精度の物を作れる会社は、日本でも数えるほどしかないんだからな」「よく分からぬが、すごいと言うことは理解出来た。遊兎、仕事に励むがよい」「褒められた気が全くしないんだが……とにかく今日は早く帰るよ」 * * * 昼休み。 食後に菜々美〈ななみ〉と話していると、工場長が血相を変えて食堂に入ってきた。 そう言えば午前中、工場長が電話でやりとりしていたが、何かトラブルでもあったのだろうか。そう思いながら悠人〈ゆうと〉が尋ねた。「工場長、どうかしましたか」「工藤、ややこしい話なんだが……」 話はこうだった。 明日納品する商品の中で、先方が発注漏れしていた部品があったらしい。先方のミスなのだが、無理を承知で頼み込んできた。何とか明日の納品に間に合わせてもらえないかと。「それで、そ
風呂からあがると、沙耶〈さや〉も小鳥〈ことり〉の部屋に入っていった。何やらこそこそと話をしている。悠人〈ゆうと〉はあえて突っ込まず、「二人とも湯冷めするなよ」 そう言って風呂に入った。 小鳥が来てからというもの、悠人は毎晩湯につかっていた。浴槽に湯をはるのは年に一度か二度だったが、いつの間にかそれが習慣になっていた。 冷えた体で湯船に入った時の感覚は、確かに贅沢この上ない物だ。目の辺りに水で濡らしたタオルを置き、そのまま肩まで湯船につかる。(あさっては沙耶の引越しか……引越しの手伝いなんて、小百合〈さゆり〉が田舎に引っ越した時以来だな……沙耶がどんな家具を持ってくるのかも気になる……まさかプリンセスバージョンのベッドとか、持って来るんじゃないだろうな…… それと……ここしばらく小鳥をほったらかしだから、明日は早めに帰って、ゆっくり付き合ってやるか……) 湯船から出て、体を洗い出したその時だった。 勢いよくドアが開かれたかと思うと、小鳥と沙耶が乱入してきた。「どわああああああっ!」 悠人が前を隠して絶叫する。見ると二人とも、どこから持ってきたのかスクール水着を着ていた。「お、お、お前ら!」「悠兄〈ゆうにい〉ちゃーん、今日は二人でご奉仕してあげるねー」 沙耶は胸の辺りを両手で隠し、もじもじしていた。「お、おい小鳥……さ、さすがに少し……恥ずかしいのだが……」「だったらするなよ!」「可愛いから大丈夫だよ。胸の辺りにゼッケンつけて、平仮名で『ほうじょうさや』って書いたら完璧。悠兄ちゃんのストライクゾーンだよ」「意味不明だ小鳥!」「いいからいいから。さあ悠兄ちゃん、美
その時インターホンがなった。小鳥〈ことり〉がモニターを覗くと、弥生〈やよい〉の姿が見えた。「弥生さんだ」 小鳥がドアを開け、弥生を連れて戻ってきた。「悠人〈ゆうと〉さん、川嶋弥生、無事サークル打ち上げから帰還いたしました。二日ぶりであります、ビシッ!」 そう言って敬礼する。「いや、だから……ビシッって擬音はいらないと何度言えば」「いやー、しかしヲタ文化は奥が深いです。今回は別のサークルとの親睦会を兼ねていたのでありますが、そこにいたメンバーと熱く語っていく内に『ナイト・シド』の新しい魅力と方向性を発見した次第でありまして……やはりヲタも10人いれば10の見解があるものでして、それはもう新鮮で堪能出来たと言うかなんと言いますか…………ん?」 饒舌に語っていた弥生の目に、金髪のツインテール、小さな美少女の姿が入った。 弥生の顔が強張る。「な、な、な……悠人さん、なんですかこの、絵に描いたようなツンデレ幼女は」 警戒レベル5の面持ちで、弥生が沙耶〈さや〉を凝視する。「おいエロゲーお約束メガネ女。ひょっとしなくてもツンデレ幼女とは、私のことを言っているのか」 何故か沙耶も、臨戦態勢に入っていた。最初から毒全開である。「ほほう。メガネをお約束と言うからには、それなりに素養はお持ちのようですね。このシークレットブーツ愛用者」「ふん、貴様こそ分かっているのか無駄乳女。メガネは所詮、メインヒロインにはなれんのだぞ。よくてサブだ。死ぬまでその座に甘んじてみるか」「ツルペタ無乳未成熟女がなにやら吠えてますね。悔しかったらその発育不良な無乳を揉んで、発育の手助けでもしてあげましょうか」「おいおいお前ら、なんでいきなり喧嘩腰なんだよ」「悠人さん!」「遊兎〈ゆうと〉!」「は、はい……」
悠人〈ゆうと〉が帰宅すると、すでに食事の用意が出来ていた。 リビングでテーブルを囲んでいる小鳥〈ことり〉と沙耶〈さや〉。二人は仲良く談笑していた。「おかえりなさい、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん」「ああ、ただいま」「遅かったではないか。その労働の対価として、正当な報酬をもらっているのだろうな」「いやいやいやいや。帰って早々、そんなややこしい話はやめてくれ」 * * * 三人での食事は賑やかだった。沙耶は終始上機嫌だった。「小鳥、お前の料理の腕はなかなかのものだな。このような物を食べるのは初めてだが、うちのメイドに勝るとも劣らぬ腕前だ」「サーヤってば本当、お世辞うまいね」「いや本当だ。この……なんと言ったか」「オムライス」「そう、オムライスだ。ケチャップソースと卵のふんわりとした食感の絶妙なバランス、絶品だ。スープもうまい」「ありがと」「それになんだ、初めは驚いたのだが、この料理はケチャップでメッセージを伝えるという面白みもあるのだな」「悠兄ちゃんへのメッセージ、今度サーヤが書いてみる?」「本当か。お前はいいやつだな」「しかし……」 悠人が口を挟む。「沙耶へのメッセージはまぁいいだろう。『サーヤ』だからな。でも俺のこれはなんなんだ?」 悠人のオムライスには『LOVE』と書かれていた。「この歳でこれを食うの、ハードル高いぞ。メッセージが重すぎる」「いいじゃない。新妻のオムライスだと思えば恥ずかしくないでしょ。そうだ悠兄ちゃん、今度お弁当も作ってあげる」「絶対紅生姜でハート作るだろ」「あ、分かっちゃった?」「分からいでか。って、会社で見られたらドン引きされるわ」「ぶーっ、せっかく気合入れようと思ったのにー」「小鳥。それは恋人が作るお約束の
「……なんか最近、小百合〈さゆり〉の夢をよく見るな……」 目覚めた悠人〈ゆうと〉がそうつぶやく。 そして起き上がろうとして、腕にまだ小百合の感触が残っているのに気付いた。 何やらいい匂いもする。「なんだ……俺、まだ寝ぼけてるのか……」 視線を腕に移す。 そこには腕にしがみついている、ネグリジェ姿の沙耶〈さや〉の姿があった。「え……」「ん……むにむに……」「……うぎゃああああああああっ!」 悠人の絶叫に、小鳥〈ことり〉が飛び込んできた。「どうしたの悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「こ、これ……」「あーっ!」「ん……もう朝……か……遊兎〈ゆうと〉、小鳥……おはようございます」「おはようじゃない。お前、なんでここで寝てるんだ」「何を言う。お前は私の下僕なのだ、夜伽〈よとぎ〉は当然だろう」「な、な、何が夜伽〈よとぎ〉だお前!」「朝から大声を上げるでない。全く……これだから庶民は困る。もっとこう、優雅に朝を迎えようとは思わないのか」「平穏な目覚めを破壊したのはお前だ」「まあ聞け。私は昨晩、生まれて初めての土地に足を踏み入れたのだ。見知らぬ土地で初めての夜。心細くなって当然であろう。大体、一人で寝かせるお前が悪いのだ」「なんだその理屈は。心細いも何も、壁一枚隔てた隣の部屋なんだ。問題ないだろ」「ビルがいない」「……ビル?」「うむ。クマのぬいぐるみ、ビルだ。やつはまだ実家にい